佐渡島の中央部、真野の地に阿仏房妙宣寺と呼ばれる日蓮宗のお寺があります。真野は古代より佐渡島全域の統治を担っており、佐渡国府、佐渡国分寺もこの地に置かれていました。阿仏房妙宣寺は中世の出家者、阿仏房日得上人が自宅を寺として開基したのが始まりと言われています。境内には正中の変により佐渡へ配流された日野資朝(ひのすけとも)の墓所があります。毎年7月3日は日野公の命日にあたり、公の霊を慰めるため、妙宣寺で能舞が奉納されています。
日蓮宗阿仏房妙宣寺は、佐渡市真野地区の小高い丘にあります。佐渡汽船ターミナルから県道65号線に入り、真野方面に進むと大膳神社史跡の案内板が出ています。案内板を目印に左折すると大膳神社、更に奥へ進むと杉木立に囲まれた阿仏房妙宣寺に行き着きます。
元々この土地は佐渡守護代武田本間氏の居城(雑田城:さわたじょう)であり、参道の脇には城石の跡がわずかに残っています。中世の薫り漂うこの壮大な寺院は、日蓮上人に弟子入りした阿仏房日得上人が妻千日尼と共に居住していた自宅を寺とし、後に真野の地に移転したものです。
日得上人は出家前の名を遠藤為盛といい、順徳上皇の配流に付き従ってきた皇室を護る武士、いわゆる北面の武士でした。順徳帝の死後、為盛は妻と共に出家し、その後佐渡へ配流されてきた日蓮上人に帰依します。
日蓮に関する本を読んだ人は、この阿仏房夫婦の名を何度も目にすることでしょう。地方史家の田中圭一氏は『承久記』や『吾妻鏡』などの書物において、順徳帝の随行者に名が記されていないことから、遠藤為盛の佐渡入島を否定しています。阿仏坊=遠藤為盛説は16世紀中頃、佐渡の名主が自家系図作成時に順徳帝に関わる武家、遠藤系図を転用、加筆したと指摘しています。(田中圭一著『日蓮と佐渡』)
阿仏房の生年は明らかになっていませんが、享年90歳と謂われ、亡くなる直前まで甲州の日蓮の元へ通い続けた、とはやはり考えにくいですね。阿仏房の享年90歳は開祖を順徳帝に縁づけるための年齢設定であった、と考えられています。系図の転用や売買が当り前に行われていた時代です。しかしながら佐渡では阿仏房は遠藤為盛であると、一般的に信じられ伝承されています。
妙宣寺の境内には、新潟県内でただ一つの五重塔があることで知られています。阿仏房の時代からぐっと月日は流れ、江戸時代に相川の宮大工、長坂町の本間茂三右衛門(ほんまもぞううえもん)と金蔵親子二代の棟梁によって建立されました。(金蔵はお婿さん)
塔を見上げていると茂三右衛門親子の高い技術と設計力に驚き、思わず呼吸を忘れてしまうほどです。佐渡へ来たなら信仰心のある人も無い人も、ぜひこの塔を見て頂きたいと願わずにはいられません。
塔は文政10年(1740)からおよそ90年をかけて建立されましたが、残念ながら完成には至りませんでした。五重の各層に高欄(寺院などの手すり)や桟唐戸(開き戸)が無いことで未完が推察されます。長期間に渡る塔の建設は資金不足に陥ったり、佐渡奉行所との設計に関する行き違いが見られたり、と紆余曲折を繰り返します。文政年間に出された贅沢禁止令に該当する、とも指摘されました。
しかし日光東照宮を模して建てられたという、五重塔は江戸時代の佐渡建築技術が著しく高いことを示しており、完、未完を問わず、遜色ない存在感があります。茂三右衛門親子の執念が結晶し、島の古都に聳え立つ、妙宣寺五重塔は国の重要文化財に指定されています。
山門を入ると左奥にお堂が二棟あります。番神堂と祖師堂です。それぞれが小さなお堂ですが、その細微な装飾には目を惹かれます。番神堂は妙見大菩薩、日本国内三十番神、加藤清正公を祭ったお堂です。加藤清正公は法華経(日蓮宗)信者の代表として信仰を集めているので、合祀されているのでしょう。
加藤清正を神格化し、諸願成就、疫病退散などを祈る思想は、清正信仰(せいしょうしんこう)と呼ばれ、全国各地に見られるものです。祖師堂は宗祖の像と阿仏房日得上人、妻千日尼の木像を祀っています。
綺麗に整備された境内を進むと正面が本堂です。本堂と寺務所を繋ぐ回廊が、これまた見事な彫刻で飾られています。創建時は美々しく彩色されていたのでしょうか?無色でも様々な意匠を象った装飾は、芸術性を損なうことがありません。本堂は文久三年に再建されたもので、島内最大の規模を誇ります。30センチはあろうかと思われる長大なお線香に火を灯し、お参りしました。
本堂横の庫裡(寺の台所で、住職の住居)も、荘厳で重厚な趣きがあります。江戸時代に再建されました。茅葺きの大屋根に破風(屋根妻側、三角部分の造形)は全国的にも大変珍しいものだそうです。御朱印は庫裡で頂けます。阿仏房妙宣寺にはご本尊釈迦如来、日蓮上人筆書状3巻、細字法華経1巻、日野資朝筆奥書が所蔵されています。
妙宣寺山門脇に苔むした墓地が見えます。正中の変で佐渡へ流罪となった日野資朝の墓所です。日野資朝は鎌倉時代の公卿で、学者、茶を嗜む風流人でした。南朝の後醍醐天皇に仕え、側近として活躍していましたが、幕府に対する反逆を疑われ、佐渡へ流罪となります(正中の変)。
流罪の理由は有罪かもしれないし?無罪かもしれない?どっちか判らないから島流し、といった非道な扱いなのです。流人には生活の自由が保障されていましたが、日野資朝に限っては佐渡では珍しく、拘束されていた身で後に斬首されました。というのも佐渡へ流罪となってから7年後、仕えていた後醍醐天皇が再び鎌倉幕府打倒に向けて動きだします(元弘の乱)。
正中の変が頓挫してからも、後醍醐天皇は虎視眈々と鎌倉打倒を考えていたわけです。計画は密告により露見し、楠木正成らの奮戦もむなしく、討幕は失敗に終わりました。後醍醐天皇は隠岐へ流罪となります。先に流罪となっていた日野資朝は即座に斬首されてしまいました。
『太平記』では日野資朝は正中の変において、実質的首謀者であったと描かれていますが、現代の歴史学者の中には無実とする人も少なくありません。討幕勢力に対する見せしめといった面も見られます。日野資朝のどうにもならない無念さは謡曲『壇風』となって、広く世に知られるようになりました。
日野資朝の息子である阿新丸(くまわかまる)は父の敵を討つため、13歳で越佐海峡を渡ります。真野の地で守護代本間入道は討ちもらしますが、斬手の本間三郎を刺殺し仇討ちを果たしました。後に南朝の後醍醐天皇、後村上天皇に仕え、日野邦光と名乗ります。
一連の仇討ち劇は謡曲となって謡われ、歌舞伎や浄瑠璃で人気の演目として語り継がれてきました。妙宣寺近くに阿新丸が脱出の際、身を隠したという松の木が今も残っています。阿新丸の逃亡を助けて絶命した僧、大膳坊は妙宣寺に隣接する大膳神社に祀られています。日野資朝はこの地で流刑生活を送りました。
大膳神社にも茅葺、寄棟作りの能舞台があり、毎年お能が上演されています。日野資朝公の墓所は妙宣寺山門脇にあるため、ともすれば見落とされがちな場所です。ですが、苔むした大きな墓標の側から見ると、寺院全体を見通すように超然と建っているのです。
1242年(仁治3)順徳帝、佐渡島にて崩御。北面武士遠藤為守と妻千日尼出家
1271年(文永8)日蓮上人佐渡へ流罪。阿仏房日得と千日尼、日蓮の生活を援ける
1273年(文永11)日蓮赦免
1278年(弘安1)阿仏房日得と千日尼、金井新保の自宅を寺とする
1279年(弘安2)阿仏房日得、死去
1324年(正中1)「正中の変」日野資朝、佐渡へ流罪
1326年(正中5)真野竹田の地に妙宣寺移転
1331年(元弘1)「元弘の乱」翌年日野資朝、刑死
1339年(延元4)後醍醐天皇、崩御。南朝は後村上天皇即位
1589年(天正11)上杉景勝の侵攻により佐渡平定。直江兼続が雑田城(さわたじょう)を廃し、妙宣寺を現在地へ移転させる
1827年(文政10)五重塔、立塔
阿仏房妙宣寺では毎年7月3日、日野資朝公慰霊の為、能が奉納されています。7月3日は日野公の命日だそうです。正中の変の経緯を見ると、中世以降の佐渡人が日野公の霊を慰めようと、心を尽くした理由が判る気がします。令和3年7月3日に上演された能演目は『夕顔』でした。本堂内に能舞台を設えて上演されます。
夕顔のシテ(能の主役)はうら若き女性が務め、ワキ(能の脇役)をベテラン製が固めるという豪華な舞でした。シテを演じる女性は佐渡能楽界を継承する期待のホープです。やがて佐渡島を背負って舞う人となるのでしょう。佐渡島内には有志による能団体がありますが、どこもみな継承者不足に悩んでいるそうです。堂内が密にならないよう、間隔を十分空けて涼しく換気がされています。音曲は堂内に反響し、効果音、演出はいい感じを醸し出してくれました。
夕顔のワキは僧です。僧たちは京都の神社仏閣を訪ね歩く旅をしていました。僧たちが五条大路を歩いていると、和歌を口ずさむ女の声が聞こえてきました。白い装束を身に纏ったシテの登場です。女は僧たちにこの場所は源氏物語に登場する某の院、廃墟だと伝えました。
ここは光源氏の愛妃、夕顔が物の怪にとり殺された場所なのです。かつて某の院で光源氏と睦合う夕顔は嫉妬の余り生霊となった六条御息所に襲われ、息を引き取りました。嘆き悲しむ光源氏。女は自分こそが夕顔の亡霊であると名乗ります。僧たちが夕顔の霊を慰めるため、法華経を読経するといつしか女は朝の光に消えていきました。クラッシックバレエのジゼルを思い出すお能です。
夕顔は「え?何で?お化け?」といった感じで何も判らずに死んでいった、というのが源氏物語夕顔の印象です。シテを努めた女性はそんな夕顔のかわいらしさを上手に表現しているように思えました。かわいく儚く哀れな女性夕顔も、法華経の念仏によって救われ成仏するのです。日蓮上人は女性でも差別されることなく、平等に成仏すると説きました。日蓮宗の寺院における、慰霊奉納能として最適な演目ですね。
阿仏房妙宣寺は存在そのものが、時代に翻弄された人々の無念と悲しみを次代に語り継いでいます。日野資朝公忌例祭は、それを継承する人々の尊い使命感により毎年上演されてきました。継承とは難しいものです。中世庶民文化の坩堝とも言える佐渡島から毎年何百人という若者が海を渡って都会へ出ていきます。
逆に近年佐渡へ移住する人は増えつつあります。佐渡へ移住後、古典に興味がある人はぜひ能役者に挑戦してみてはいかがでしょう?能文化は継承する人間がいなくなれば、いつしか島から消えてしまいます。同じように流人となった人々の悲しみも語り継ぐ人がいなければ、島から消えてしまうのでしょう。阿仏房妙宣寺は継承の難しさと尊さを教えてくれたお寺でした。
新潟県佐渡市阿仏坊29
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